たいようとあめのしるし

おそらく10年ぶりくらいに再開します。

私だって疲れました

自分を見る瞬間を共有できないひととはリレイションは築けない。

リレイションを振り返るとき、いつもあなたは最初にわたしを置く。

「あなたもおかしかったし、私もおかしかった。」

私がおかしかったかどうかは私にとっては瑣末なことだ。
自分自身を見るはずの瞬間に、なぜいつも最初に私を置かなければならないのかが疲れる。

ひとはみんな孤独で、
そんなことはあたりまえだ。

「私は孤独だから」「孤独を保っているから」と言われても感動しない。
孤独自慢はあまりに満ち溢れている。

起きていることを見たりあいだに起きていることを見たりする。
「見ること」を共有できないならリレイションは続かない。

で、その時間を決めるのも”あなた”なんだね。
呆れます。

私は、自分が悪かったと言われたことに怒っているのではない。

あなたが自分自身を見るとき、なぜ最初に私を置かなければいけないのかに憤っている。

私だって疲れました。

殺生禁断と被差別/ナーランダー仏教と、インドのゴキブリ人民党ムーブメント

最近、食肉の歴史について調べていて気になることが出てきている。日本では、仏教が伝わってから「殺生禁断」という考え方が広がった。

動物を殺すことはよくない。ところが、食肉の歴史を見ていると、動物を殺して肉や皮を扱う仕事を担ってきた人々が長いあいだ差別の対象にもなってきた。

「殺生はよくない」と言いながら、殺生を担う人間を社会の下位に置く、ねじれ

もちろん、被差別部落の形成を仏教だけで説明するつもりはない。日本社会には、仏教以前からの穢れの観念もある。私が気になっているのは、そこを全部ひっくるめた穢れを主体とした歴史観ではなく、仏教が持ち込んだ「殺生を避ける」という倫理観が、日本社会の中でどう受け取られ、食肉や皮革を担う人々の社会的位置とどう結びついたのか、というところだ。

そして、これは絹の歴史について考えたときにも似たことを感じた。蚕を育て、生きている蚕から繭を取り出して生糸を作る。これも、動物の生命をどう考えるのかという問題なのに、日本仏教史の中では、食肉や屠畜ほどには、この問題が前面に出てこないようにも見える。

なぜなのか

そこで私が思い出すのはチベット仏教だ。

ダライ・ラマ14世は、しばしば「ナーランダーの伝統」について言及している。

ナーランダーは古代インドの巨大な仏教僧院・学問センターで、仏教哲学や論理学などが高度に研究された場所だ。インドから中国、朝鮮半島を経て日本に伝わった仏教も、もちろんインド仏教を源流としている。

「日本仏教はナーランダーではない」という単純な話ではないとは思うが、伝承のあいだには長い翻訳と再構成の歴史があったことは垣間見える。

インドから中国へ
中国から朝鮮半島へ
そして日本へ

その過程で、何が受け継がれ、何が変わり、何が日本社会の制度や習慣と結びついたのか。その辺りを考えてみたくなった(すぐ飽きるかもしれない)。

私がいつもチベット仏教に強く惹かれるのは、たぶんこのあたりなのだと思う。

教えをただ「伝統だから」と受け取るのではなく、論理的に検討、再検討する。人間の苦しみや認識について、慈悲(コンパッション)をベースに考えつづける。

そして、社会のあり方までを問い直す。

そこで、もう一人思い出すのが、アンベードカルだ。

昔、アンベードカルの本を読んだとき、細かい内容はもうかなり忘れてしまったけれど、当時から「いちばんわかりやすい」と感じたことをよく覚えている。

アンベードカルは、仏教を、単なる信仰としてではなく社会をどう組織するのかという問題として捉え直した。

彼にとって重要だったのが、Dhamma(ダンマ)という考え方だ。

ダンマは、神を信じることや儀礼を守ることだけではない。

人間同士がどう関係するのか
自由や平等をどう実現するのか
人間の尊厳をどう守るのか

そうした社会的・倫理的な原理として仏教を読み直している。

だから、アンベードカルの思想は、「仏教をそのまま法律にする」という単純なものではないけれど、法律によって最低限の平等を保障するだけではなく、その社会を支える倫理としてダンマを考える、という方向性を持っている。

「動物を殺してはいけない」という倫理が「人間をどう扱うのか」というところまで届いているか、動物への慈悲を語りながら人間を穢れた存在として扱う”ねじれ”。そのような”ねじれ”が社会の中にあったとするなら、その宗教的倫理はどう評価されるか。アンベードカルはそこを問い直したかったのだと思う。

並行して、日本に伝わった仏教が、日本社会の中で何によって何に変換されていったか。そして、その変換の過程で何が見えなくなっていったか。

殺生禁断、食肉、絹、穢れ、被差別、ナーランダー、アンベードカル

ばらばらなものが、最近、少しずつ一本の線になってきていて、まだ答えはわからないけど、壮大でもありそうで、根底的でもありそうだ。

仏教を「何を信じるか」ということだけではなく、「どんな社会をつくるのか」というところから考えてみると、今まで見えていなかったものが見えてくる気がする。

最近、SNSで「ゴキブリ人民党」なるムーブメントをよくみていたのだが、アンベードカルが起草に深く関わったインド憲法の精神を誇りに、熱く声高に民主主義を語るインドのZ世代と、それを見守る大人たちを眺めて、そんなことを考えたりしていた。

Jai Bhim. Jai Hind.🇮🇳

くうきのなかにみずがいっぱい

ペールブルーなそらにグレーなくも
押しつぶされそうなのは、
私の中の、

釣り鐘のかたちをした白い花が、

カラカラを探す
コロコロでもよくて

くうきのなかのみずは肌を伝う

瞼の奥ではみずに擬態したビー玉が
秒速1センチメートルで落下する

音がするコトバを探す
瞼をひらき、耳を澄ました

そらそらを観測し観察する/見つめて眺める 2026

0.
やわらかいことばがひとをきずつけないわけじゃないうそのことばがそれをはこぶあなたはわらって

すきまのないことばを
わたしのからだに
わたしが不在の対話を
対話の顔をしたそらそらの言葉を
蔦のかたちをしたそらそらを、
巻きつけた
息ができない。
わたしはここにいます
あなたにはあなたしかみえず

花瓶の水をとりかえることにしました
鳥たちは水を飲みました
あなたのせかいはきょうもへいわです
あなたはいうのです
わたしにはみえているのだと、

1.

そらそらのコトバに
そらそらのコトバがあつまって
ちいさなしゅうらくがうまれました

そらそらははだざむく
ふくをそらそらにかさねぎしてみるけれど
そらそらのそらそらゆえに

かぜをひきました

こんやもそらそらのさけをのむ
そらそらのかんしゃくにひきつけられたそらそらたちと
えいえんのダンスをおどるのでしょう

2.
父親というひとか薄ピンクの飴玉を手渡した雨の日、

固定されたキメタ構図についてもそろそろに、
そろそろのそらそらに
気づく、または永遠に繰り返される

飴玉はまあるいのですか

3.7
キメタ構図茶屋にて

憧れというよりは憧レルごっこの拡大である
憧れてほしいのだから、キメタ。
キメタの構図

言わなかったけれど、
構図は構図という言葉の中だけにあるわけがなく
あなたのようにお喋りではないので
そらそらのくにではわざわざに言わなかったのだろう
もしくは、
そらそらのくにからは憧れの意味を知るものはすでにさり、

5.

そらそらが好きです。
嘘だけれど
あなたはこうやってそらそらになったのですか。
わたしに
そ、と、ら、と、そ、と、ら、を
蔦を巻きつける影ほどに
バラバラと、宇宙の隙間に

関西学院大学への要望/署名ご協力のお願い

藤原さんは就学していた関西学院大学において、2022年、ご自身の生まれつきの身体的障害への無理解や差別によってかかえ発祥した複雑性PTSDに触発させられるようなハラスメント授業を受けました。

彼が大学側が公文書で発表している障害学生支援ガイドライン、教育の基本原則を遵守するよう話し合いの場を求めたところ、参加された事務員からは「そんな小さなことは関係ない」という無責任な言葉と強いジェスチャーを更に受け、その直後、彼は就学してからは初めての強い希死衝動に駆られました。

その後も彼に対する関西学院大学の対応、態度は不誠実なものが続き、現在彼は食事もままならないほどに衰弱し入院を余儀なくされている状態です。

そのような中、大学側が無理矢理進めているハラスメントの民事調停が続いています。

先日の第2回調停後にも彼の精神状態は著しく悪化し、再度強い希死衝動に駆られました。これはこの無理矢理の民事調停そのものが、全くもって不誠実であり、障害者差別に基づく精神障害を帯びたものへの著しく配慮が欠けた中で行われていることの証左です。

実際に当初藤原さんがハラスメントの訴えを起こした授業を受け持っていた担当の教員は、その後大学側で内々に処分を受けたと聞いています。

差別する側にとってはひとつひとつが些細なこと、些細な一般的社会としての合理性、不誠実さであっても、それをされる側はいかにそれが自身への人権が軽視、無視されているものかを都度体感させられてしまい、生きる気力さえ奪っていきます。

また、本国では2021年6月に障害者差別解消法が改正され、2024年4月1日より、すべての大学等においては障がいのある人への障がいを理由とする不当な差別的取扱いの禁止、及び障がいのある人への合理的配慮の提供は義務化されています。

藤原さんのケースは、ちょうど合理的配慮の義務化が執行される前の法の瀬戸際のケースではあるものの、関西学院大学の一連の対応はあまりにも不誠実であり心が痛みます。

関西学院大学には、まずはこの不誠実さの積み重ねである民事調停をやめ、大学の利益しか求めない不誠実な大学担当弁護士の介入がない、ゼロベースからの誠実な話し合いを新たに開始することを望みます。
この要望にご賛同いただき、署名のお力添えをいただけたらうれしいです。

2024年11月26日 空閑友美

黒(市村柚芽さんへ)

黒は絵の具としては使うのがとても難しい色ですね。

私は若い頃に行ったレオ・レオーニの展覧会で、”黒いテーブルほど世の中に素晴らしいものはない(大意)!“という彼の言葉に感化されて、知人が使わなくなった黒い机を譲りうけて喜んでいたことがあります(今は鳥かごをのせている台になっています)。

ちなみに私は、絵の具で使うときの黒はランプブラック派です。

市村柚芽さんへ

https://twitter.com/minmin0807/status/1307877520453238785?s=46&t=8RooShgd4OfhStC3lo4Pbg