たいようとあめのしるし

おそらく10年ぶりくらいに再開します。

「はんかくせっきゃ」の意味の周辺

「はんかくせっきゃ」という津軽弁について家族や従妹などに改めて聞いてみた。

母いわく、「在の人でないば使わないよ、品のある人は今は使わない」とのこと。また、「ばっちゃんがよぐ使ってだね」とも。なるほど。

結局、肝心の意味は母も説明できない。ニュアンスで「それではない」というのはあるけど、それを標準語で説明するのはなかなか難しいし、そもそもそれ以前にその意味を追求することにさほど興味がないみたいだ。

私の母方の祖父は第一次大戦後頃?に小樽から家族(曾祖母、祖父の兄、祖父)で青森市に移り住み、青森市中心地の旭町で畳屋を家族経営していた。小樽では新聞社勤めだった祖父も青森では畳職人を生業としていた。

母方の祖母である私の「ばっちゃん」は青森市の西の端にある津軽新城の百姓の出で、勉強が嫌いで読み書きがほとんどできなかったが、畑仕事が芯から大好きな人だった。

当時では珍しかったバツイチ同士の祖父と再婚したばっちゃんは、旭町の長屋で暮らしていたものの、戦後直後の貧困や、祖父には当時の職人にありがちな稼ぎを酒や付き合い博打で浪費してしまう癖があったこともあり、子供達の食料を確保するためにしょっちゅう新城の実家に戻っては、数か月帰らず、実家に住み込みで畑仕事を手伝い、その手伝った代賃として得た野菜を大量に担いでまた旭町に戻るという生活を繰り返していたそう。

母は5人姉弟の先頭長女だったこともあり、必然的に祖母不在の間、小さい頃から家族の飯炊きをすることになる。また、週末になると新城へ行き、週明けの早朝には祖母が蓄えた報酬の野菜たちを背中に背負い新城から旭町に歩いて運んだのだそうだ。旭町につく頃にちょうどみんなの登校時間となるため、同級生にその姿を見られることが、母にとって「たげめぐさがった(本当にはずかしかった)」とよく話してくれた。

それでも、生まれてからずっと青森市で生きてきた母にとって、旭町育ち、古川小学校通いで育ったことは、母にどこか「街の子」出身者の誇りのような空気をまとわせ、母を支えているところがあったように思う。母から聞く昔話のはしばしに私はそれを感じとっていたし、小さい子供というのは無条件に母親が好きな生き物なので、母が誇りに思っていることは私にとっても誇りであり自慢だった。

大人になり、結婚した母は市の南側郊外の新興住宅地である幸畑団地に移り住んだ。子供ながらに聞く母の思い出話には、母にとってのこの青森市移動遍歴すら都度「街の子」育ちの母が「はんかくさぐない」選択をしてきた結果のようにも思われたし、私にはそんなふうに響いてた。

この「街の子」出身者としての空気は、母が使う津軽弁にも表れていたようにも思う。母の津軽弁は、ばっちゃんのそれとはまったく違い、品がある響きがあった。仕事で市外の人とのやり取りも多かったためか、その津軽弁は外部の人にも聞き取りやすいように工夫されているかのようで、洗練された発音の響きと緊張感が含まれている。他方、私は「在の人」であるばっちゃんのこてこてで半分意味不明な津軽弁の音も相当好きだった。それはまるで音でしかなかった。小さい頃はよくばっちゃんの真似をして母に注意を受けていた。

なので「品がある人ははんかくさいなんて使わないよ」と言った母には、「はいはい何とも母らしいですね」と思ったと同時に、この「はんかくさい」がばっちゃんがよく話していた口癖だったという事実には驚いた。そのことについては自分でもびっくりするほど記憶がないのだ。

私の両親と私との始まりは週末親子だった。

私を身ごもる直前に新町の条件のいい会社に入った母は、産休明けすぐから職場復帰し、3歳で保育所に入るまでの私は、平日はばっちゃんの家に預けられ週末だけ両親の家に帰っていたらしい。その頃の祖父母は、旭町から祖母の出身地である新城に移り住んでいた。ばっちゃんの兄である酒飲みヨシゴロウ(「新城のヨシゴロウ」といえば当時の新城周辺ではかなり悪評高い酒飲みだったらしい)が、先祖代々の百姓の土地を売り払っては酒代に変え、百姓の命である土地がみるみるなくなっていったそう。ばっちゃんはそのことに相当心を痛めていて、とうとう意を決し、祖父が「移住した青森のこの土地に骨を埋めたい」とこつこつ墓購入のためにしていた貯金を使うことを説得し、売却されていく新城の先祖の土地の最後の僅かばかり購入しそこに廃材を集めて建てた小さい家で暮らし始めていた。その家の前には100坪弱ほどの畑が広がっていて畑仕事大好きばっちゃんにとっては悲願の家だった。祖父は自分の小さな夢を諦めばっちゃんのその強い願いを寡黙に受け入れたものの、その後には明らかにお酒を飲む量が増えたそう、これは母から聞いた話。

私は3歳までのほとんどの時間をこの新城の小さいうちで過ごしたらしいが、私にはこの3歳以前の記憶がまったくない。両親と週末親子だった記憶もない。

物心ついてからの私は、記憶力がさほど悪いほうではなく今日まで生きてきているけど、どうあがいてみても3歳以前のその頃の記憶を思い出すことができない。

話で聞いたり写真で見知っている以外の私自身の幼少期の記憶は、保育所に通い始めた初日から鮮明に始まっている。人生で初めて味わった保育所初日というソーシャル体験がよほどショックだったのか、その日の鮮明な記憶が強烈にあるが、それと反比例するかようにそれ以前の記憶が恐ろしいほど全くない。私の記憶による人生は保育所に着いたと同時に怖くて大泣きした初日のあの瞬間から始まっているのだ。

「三つ子の魂百まで」ルールがあるなら、私の魂はほとんどばっちゃんと新城のあの家によってできていることになる。記憶がない中でも在のばっちゃんの口癖だった「はんかくせっきゃ」にこだわる私は、記憶がないままにばっちゃんから何を教わったのだろう。ばっちゃんはどんな意味で「はんかくせっきゃ」を使っていたのかな。

今はばっちゃんがいないから、それを聞くことができないけど、ばっちゃんがいたとしても、ばっちゃんは共通語が全然できなかったので、それをうまく説明してもらえたかどうかは不明だ。たぶんわがんねっていうびょん。

「はんかくせっきゃ」

津軽弁で「はんかくさい」という方言がある。

子供の頃の記憶では、親族や親しい友達との会話の中ではかなり頻繁に、「はんかくせっきゃ」「んだっきゃ」と相槌を打っていた記憶がある。

 当時は考えもしなかったけど、この音を漢字変換すると「半可臭い」なのかな。ニュアンスとしては「生半可」とか「半可通」とかに近く、誰かの行いなどに対し「はんかくせっきゃ」「んだっきゃ(そうだよね)」と相槌を打つことで、「私たちははんかくさぐない」「はんかくさくあってはならない」と我を律する、そんな合言葉だったという記憶。

青森市津軽弁はもともと敬語が発達していないので、話すときは老若男女みな対等だった。おとなしく控えめなクラスメートでもこの「はんかくせっきゃ」という批判精神はしっかり持っていて、頻繁に使っていた。そう、「はんかくせっきゃ」、「んだっきゃ」は相槌、合言葉であり、精神だった。「私たちははんかくさぐない」「はんかくさくあってはならない」と呼応しあうとき、それは冷たい真っ白な雪の澄んだ空気の中で、クスっと笑いあいながら「粋」の次の領域に向かう小さな儀式でもあった。「はんかくせっきゃ」ということは、「はんかくさぐなぐ」「粋」な私、精神を目指す合言葉だった。自分自身を律するおとだった気がするのです。

青森市は湊町で、古くから他の地域の人たちが行き交う街だった。そこで定着した人たちも多くいただろう。その行き交いのなかで頻繁に繰り返される「はんかくさぐないこと」とは、不必要な媚びを売らない、空っぽなことで自慢しない、人をくだらないことで差別したりない、などの「粋」の精神が含まれていた気がするのです。行き交う街で、不条理なこともいっぱいある日常の中での「粋」なこと、「粋」を目指す精神。そういう願いや知恵が「はんかくせっきゃ」「んだっきゃ」という音の呼応の中に多分にあった気がするんだけど、これは私の記憶違いなのかな。

今の青森市青森市政にはどうもこの「はんかくさぐない」精神が感じられない。

つまりは「はんかくさい」んです。

 

 

 

 

2021年前半まとめ

気づけば、2021年も半年終わって今日は七夕。前回からその後あったことをまとめる。

 

■2月~3月 

今冬の大雪で、雪かきの疲労と雪捨て場までの道路の悪さにより、案の定母が仙骨骨折し入院。

妹と違い(人間の)子育て中でもなくコロナ渦の影響で在宅勤務中である私が、母入院の間、年老いた父と生活するために帰郷することになる。

帰省前から飼っていた老桜文鳥の具合が悪く気がかりだったが、私が青森に滞在中に他界した。

川崎の家に戻ってみると残された連れ合い(トシぴょん)と2羽の鳥(オカメインコ白文鳥)の悲しみに包まれた空気が尋常じゃなく重く、ちょうど文鳥の雛が産まれる季節ということもあり、新たな桜文鳥の雛を迎えることを瞬間的に決意する。

 

■5月~6月 

連休は本邦の火事場泥棒政治がひどく、特に入管法改悪案が通りそうな状況に心が痛み、気が気ではなかった。連休を連休として休めなかったことがその後の私の年間サイクルの乱れとして今も続いている気がしている。

地域活動で今年は自治会当番と管理組合の理事が重なり、割と大変なことになっている。

とはいえそれらの組織たちに対し実際的に私が何かの役にも立っているわけではない。

ただただ私自身が大変と思っているだけの状況。

 

〇家の片づけと分断と

 私は「料理すること」が好きじゃないが、整理整頓に関しては今までそこそこの自信をもって生きてきた。むしろ、整理整頓を軸に今まで生き延びてきたと言っても過言ではないと思っている。しかし、今年は連休に恒例にやる家の整理時期を逃したからか、最近どうも家の片付きぶりがおかしい。この事態は私にとってかなり気持ちが悪いことなのだが、ここをどうしても打破できずにいる。思い返すに2月~3月頃に上京後四半世紀ぶりに青森に1か月以上滞在したあとから何かがおかしくなったような気もするし、地域活動で自分の時間が減り、代わりに今までそんなに知らなかった人の感情の情報が増えたことにもよるかもしれない。

子供の頃から空間を使って思考したいタイプで、家は私の思考であり箱庭だ。家が片付かないということは自分の思考が片付いていないのだとうすうす認識はしているので、少しずらずらものを書いて、ふと部屋が片付くきっかけがつかめればいいかな。部屋が正常なサイクルに戻ったら、また書かなくなるかもしれない。

 

地域活動に参加してみて驚いたのはメールのやりとりの頻繁さだ。プライベートで手紙もそうそう書かなくなって久しいが、最近はメールすらしない。仕事でもチャットがメインのため、未だメールがこんなに使われていることにかなりおののいた。生業の影響でプライベートではPCを起動させることすら死ぬほど億劫な私は、生業以外でメールをやりとりしないといけない実態に相当引いた。今はだいぶ慣れてきたけど。メールは、誰をCCに入れるかなどで微妙な政治が始まる感あるところがいやですね。

 

昨年末からの青森市の豪雪対応と幸畑団地地区まちづくり協議会への備忘

✳︎これは昨日Mediumに投稿したものですが、こちらに修正版を投稿します。これからこのことについてぼちぼち分析していきます。

昨年末から青森市は、豪雪に見舞われ除排雪作業が追いつかない状態が続いた。また市政の初動の遅れも重なってか市民からは市役所窓口に7000件もの除排雪相談が寄せられたという。

Twitterにも連日の雪かきの疲労と適切な情報が入手できない市民の苛立ちの声が散見していた。除排雪への文句のツイートを目にした除排雪業者の「俺らは奴隷じゃないんだ」といった嘆きや、市政に声を上げる人、また、こんな時に文句をいうなど民度が低いと声を上げるものに冷ややかなどこまでも自助精神の人たち。

そのうち匿名垢によるどこまでも美しいボランティア精神な除排雪情報ツイートが始まり、人々の称賛が集まる。青森市民はやはり優しいよねといまにもバズりそう。

でもこれって根本的におかしいと私は思う。

本来情報は市が積極的にアナウンスするべきもの。

私は出身地幸畑に住む80歳手前の母との電話で、年末からの雪かきの大変さや、なぜ今年は例年より除排雪が入らないかについて地元老人たちの間でさまざまな噂が広がっていること、市役所や町内会に相談しても取り合ってもらえていないことを聞いていた。

一日にどれくらい雪かきをしているか尋ねたところ、「ほとんどだよ、どうせやることない暇な老人だから」と老体に鞭打ち、足が悪くなった父の代わりに屋根の雪下ろしや、できる限りの周りの歩道もやっていることを聞いた。

「雪かきで死なないでね」と言うと「雪では死なないじゃよ、まあ倒れるぐらいはあるがもしらないけどね、でも朝に甘いコーヒー飲むとググッとまた元気になるんだ」と既にやや変なテンションだった。

雪かき中、隣の家の屋根の雪が落ち足が埋まってしまい全く動けなくなったこと。「あれほんとにうごげなくなるね、こわいね、スコップ持ってだがら自分で掘ってでれでよがった」と笑って話す。だからそれが「死ぬ」ってことでしょ?とこっちは思う。

母は真っ直ぐで決めたことはやり通すタイプの人で、長距離マラソンのように朝から晩まで雪かきをしている。「近所の人にあのババ、キチガイになったんでねがって噂されでるびょん、でもいいんだね、言いたい人には言わせでおげ」と笑って言ってた。

そんな時、小野晃彦青森市長のTwitterでは呑気に初詣した報告や今年の経済発展の抱負についてテレビ出演でアピール。

まるで母から聞いた世界の出来事と違い、正直身震いした。母は疲れ切って初詣にも行かなかったのに。

市役所に相談しても「あんただげでないはんで」と言われる。町内会も同じ。だから言ってもしょうがない、と諦めの精神。

でも、これってやっぱりおかしい。

そんなこんなで遠方で年老いた郷里の両親を心配する私は、どんな状況なのか正しい情報が入ってこず、結局Twitterで情報収集する日々が続いた。

そんな苛立ちの連日の中で、昨日、地元の幸畑団地地区まちづくり協議会から、これ以上の自助を促すツイートが流れたのをみて、瞬時にぶち切れたリプをした。

そしたら速攻ブロックされ、Twitterに通報までされた。これには現在Twitter社に異議申し立てをしている。

あちらにも言い分があるだろうがこちらにも言い分がある。

私の故郷の地域を名前につけたアカウント、さも地域のためにやってるふうアピールだが実態は伴っていない。ましてや遠くにいる両親を心配した故の私のツイートを即座にブロックし通報した。

日頃から子育て支援等アピールはするものの、本当に困っている人への働きかけが見えないこと、老人に対する働きかけがなさそうなツイートに日頃から苛立っていたこともある。

ブロックだけでも本当に腹が立ったが、即座に通報するなんて「まちづくり協議会」と名乗るにはあまりにも腹を据えていず無責任に感じる。

ネット情報よろしくやっているなら、遠方で年老いた両親を持つものたちへの正しい情報発信にも目配せしてこそがこれからの「まちづくり」では?とも。

まあ、でもそれもこれも根本的にはやはり市政が悪いんだと思っている。

市政が市民に納得がいく情報を発信していれば、こんなふうに市民やその家族達の分断は起きなかったのではないか。

私が今住んでる川崎市では考えられない情報発信、リテラシーの低さだ。

また、結局はこの感情たちに報いる情報を提供しきれなかった東奥日報にも問題があると思っている。

私は現在在宅勤務をしているので、短期間でも地元に帰り仕事をすることも葛藤にあったが、コロナ禍での関東帰省者に対しての差別的な対応や近所の目がある噂も聞くし、ましてや私のようなはっきりモノを言う人間なんて瞬く間に村八分なんだろうなと改めて実感した。

多様性のカケラもない。臭いものに蓋をして日和見を発揮しないと生きていけない。そんなのでこれから先のまちづくりなど出来るのかと思うが、これも価値観の違いなのだろう。

私自身、当時新興住宅地だった幸畑団地で、リベラルにのびのび育ったつもりでいたがそれも四半世紀以上前のこと、比較的リベラルだったのは自分の家庭内だけの話だったのかもしれないとさえ思い直した。

生まれ育った幸畑団地を名乗るアカウントにブロックされたとき、私の中の故郷は死んでしまったのだと思った。

最後に総合的俯瞰的にみると、やはり1番悪いのは、適切な情報を発信し続けず、市民の自助任せにした青森市政だと私は思う。

 

 

”たいようとあめのしるし”を再開します

 

仕事以外はPC触りたくない引きこもりをしていたら

あっという間に時が経ち、ダイアリーの頃のデータを失いました。iPhone大好き!

Twitterにもそろそろ飽きてきたのではてな再開します。

理由は色々あります。ぼちぼち書きます。待ってろよ!青森市Twitter JP!

使い方も忘れてるのでお手柔らかにお願いします。

 はてなも私も大人になりました。

 

このツイートで葉っぱさんを思い出した。